【再掲載】植栗先生の記事

2018年度版(2018年5月発行)の会報誌の中にある、植栗左千子先生(国語科)の記事をもう一度見たいというお声をいただいたので、ここに再掲載いたします。(PDFで表示→)


恩師を訪ねて

植栗左千子先生(国語科)

花散らしの雨が降る4月初旬、箕面にお住いの植栗先生をお訪ねしました。岩橋先生もご同道くださり、あっという間の2時間を過ごしてきました。たくさん聞かせていただいたお話の中から特に創成期の阪南高校にまつわる興味深いお話をご紹介します。

 今年1月に91歳になられた(とはとても見えない!!)植栗先生は、昭和37(1962)年から昭和62(1987)年までの25年間、阪南で国語を教えてこられました。創立が昭和34(1959)年ですから、4期から29 期までの阪南生を見てこられたことになります。岩橋先生も同じく国語を21 年間担当され、「現国の岩橋」「古文の植栗」と並び称され、生徒たちの圧倒的な支持を得ておられたのです。

 初代校長吉原保先生が阪南設立にかけた並々ならぬ熱意を知っておられる方も多いと思いますが、例えば3学期の終業式のあと、植栗先生の前任校(茨木高校)に駆け付け、先生を傍らに立たせて、茨高の校長さんに「それでは頂いて参ります」と頭を下げて挨拶され、阪南に同行されたそうです。「新設校の校長は人集めが重要な仕事ですがここまでの熱意をもって行動される校長は少ないと思います。」(植栗)

 新設の学校というので不安に思う親たちが多かったと思いますが、始業式、終業式も授業、定期考査後の休日も授業、夏休みも半分補習という名の授業。規律も極めて厳しく、生徒は正門からは入れず通用門を使用。遅刻をすると、教頭先生の許可証をもらわなくては教室に入れないなど近隣の学校も噂するスパルタ教育が行われました。

 このことは校長も自認しておられましたがそこに教育に対する強い信念と高い理想と熱いロマンを植栗先生は感じとっておられたそうです。生徒もそれに応えて、ホームルームで「頑張ろう!」と拳を上げた子に皆も同調して声を上げ、植栗先生を感動させるようなこともありました。

 成果はすぐに現れ、8期生の私が入学するころには中学校の進路指導先の人気校のひとつとなっていました。阪南の校舎の特徴の一つに、各教室にロッカー室が設けられているというのがありました。それがいつのころからか閉鎖され物置となり、今では廃墟化しています。「残念ですね」とお話しすると、なんと植栗先生から「閉鎖の張本人は私よ。」との衝撃の発言がなされました。「えーーっ」と絶句。吉原先生のロッカー室の機能的使用というせっかくの理念も、いつしか自由を求めていく風潮の中で自由勝手に利用され、中で暴力が行われるという不祥事もあり、思い切ってロッカー室の撤去を植栗先生が提案され、生徒会との合議の上で実施されたのでした。自由と規律は植栗先生の把握しておられた阪南生の姿勢でした。

 15期生が阪南中興の学年といえるほど優秀であったこと、かの有名な小説家のH氏は理系が強く常に学年トップだったけど意外にも国語はさっぱりだったことなど、身を乗り出して聞くお話の数々は尽きません。

 名残を惜しみつつ「また、伺いますね」と別れを告げ、お話の中で先生が強調されていた「自律」という言葉は、まさに植栗先生そのものを表す言葉だなあ、と感じながら帰途につきました。

(インタビュー/澤本 あつ子)

  昨年の秋、「創立当時の思い出」をテーマに植栗先生が講演されました。ホームページにあげておりますので、是非ご覧になってください。(講演の音声データはこちら→)

2 thoughts on “【再掲載】植栗先生の記事

  1. 渋谷幸久 より:

    お世話になりました。まだお元気だったのですね。今の標準語でとうとうと古文を詠まれる独特の植栗節、亡くなられた藤田先生の現代国語、小笠原先生の英語、中澤、野村先生の数学などなど、はっきりと思い出されます。

  2. 18期生。匿名。 より:

    植栗先生のお話、懐かしく拝見いたしました。再掲いただき、ありがとうございます。「坊つちやん」の表記はいまだに忘れられません(笑)

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