7期生・石黒さんより⑤

石黒さんは、カナダのトロントにお住まいですが、ドイツで生活された経験もあるそうです。一体どのようにしてドイツに渡り、そしてドイツ人とはどのようにコミュニケーションを取っていらっしゃったのでしょうか?


◆私の英語とドイツ語◆

今回の記事は英語に関する2回目の記事で、私の英語とドイツ語というタイトルで、私がドイツで経験したドイツ語習得について少しお話させてもらいます。自分にとってのドイツで過ごした一年間は、外国語を喋るということでは、目からうろこが落ちる経験でした。

1970年代の初めのころに私は尼崎にあった尼崎日産で主に自家用車の車検の整備士をしておりました。職場の同僚からその時聞いた話では、尼崎では市が後援している若人向けの文化サークルがあって、英会話、習字、生け花とかのクラスが毎週一回夜に阪神尼崎駅近くの市の会館で行われていると聞いて、さっそく英会話教室に通うことにしました。先生、ほかの生徒さん達とも楽しい授業を受けておりましたところ、尼崎市と当時の西ドイツのアウグスブルグ市が姉妹都市関係にあると聞き、それならアウグスブルグに行って少し向こうでの生活の経験ができないでしょうかと先生に相談をしたところ、先生が市長に掛け合って紹介状を貰えるように頼んでみるとのことだったんですが、その話がトントン拍子に進んでその結果、1972年の初夏に尼崎市長からの紹介状を持って、伊丹空港からエールフランスの飛行機で、マニラ、バンコック、テヘラン、それにアテネに給油のために止まりイタリアのローマまで飛び、ローマから鉄道でスイス経由で、西ドイツのアウグスブルグに向かいました。

アウグスブルグに着いてすぐに市庁舎の姉妹都市係りの方とお話をして、アウグスブルグで生活を1年経験したいので仕事と住むところをお世話していただけませんかと頼むと、すぐにすべてを手配していただいて、次の週から市内のオペル自動車系列の自動車販売店の修理工場で、働き始めました。丁度この年はすぐ近くのミュンヘンでオリンピックが行われることになっていて、アウグスブルグもカヌー競技が開かれる予定になっており、町は活気づいておりました。

(アウグスブルグの市庁舎。2018年に45年ぶりにアウグスブルグ、並びに南ドイツを訪れました。)

(アウグスブルグ市庁舎の3階のホールです。まるで宮殿のような作り方です。)

当時の私の英語のレベルは日常会話がある程度できるぐらいで、ドイツ語は1,2,3、(アイン、ツバイ、ドライ)ぐらいしか数えられなくてほかは全く喋れませんでした。最初の頃は工場内での上司との会話は、オーナーのお嬢さんが英語ができたので彼女を通してやるという感じで、上司との意思疎通にはかなり無理があったような感じがしましたが、仕事の上での、例えばオイル交換、マイナーなエンジン調整とかは日本でもやっていたので、やり方はドイツの車でもそんなに変わりはなく、問題はありませんでした。

工場にいた整備士の人たちは、だれも英語が分からないというか、話さなかったので、私がドイツ語を覚えて、話をするしかないという感じでした。自分でも本屋で英語とドイツ語の辞書なんかを買って、自分なりに勉強は少しやっていたと思いますが、学校に行って本格的に勉強するとかはしなかったです。毎日新しいドイツ語の単語を覚えていき、だんだんと自分の言いたいことも言えるようになっていきました。

毎日が新しい言葉との出会いだったんですが、しばらくして自分でも感じたのはドイツ語というのは何となく英語に似ているなと思ったことでした。文型も似てるし、単語にしても英語に近い単語が結構あってわかりやすかったと思います。それに英語の5W1H みたいなのもドイツ語にもあり、表現も似ているように思いました。

土曜、日曜は休みだったので、週末はよく一人でヒッチハイクをして、ドイツ南部、オーストリア、スイスの東部地方を旅行してました。この地方はドイツ語圏だったので、旅をするうえで言葉の面では全然問題はなかったと思います。それにこの地域ではヒッチハイクがとても簡単で、すぐに乗せてくれました。たぶん4-5か月ぐらい経った頃だと思うんですが、そのころには、ドイツ語で日常の会話はできていたと思います。工場の中での上司からの仕事の指示、同僚との仕事上とか休み時間での会話、スーパーでの買い物等ドイツ語を使った生活には問題はなかったように覚えています。

ヒッチハイクで乗せて頂いた運転手の方たちとは何処から来た、何処に行く、何をしているとか、それに世間話での会話はすべてドイツ語でしていました。全然問題なく運転手の人たちと会話ができたと思います。中学から英語習い始めて、英語で日常会話ができるようになるまで、約7年と少しかかりましたが、ドイツ語で似たようなレベルになるまでに、5か月かからなかった様に思います。

英語の基礎があったので、私がドイツ語を喋っていた時は、ただ英語の言葉をドイツ語の言葉に直して、後は英語の様に主語、動詞、目的語(SVO) というような文型で話をしていただけでした。日本語から英語を話すときにする動詞の位置替えをする必要もなく、ただ単語を入れ替えて言うだけで通じるのでほんとに楽だなと思いました。我々が日本語から英語に変換するときの様な苦労が全くないなとその時思いました。

私はドイツ語は学校にも行かずに自己流で学んでいて動詞の時制の変換などはできなくて、私が喋っていたドイツ語はすべて現在時制のドイツ語で文法的に見ても間違いがたぶん多くあったかと思いますが、相手に自分の考えを伝えるという点では、問題はなかったように思います。

(ドイツアルプスにある世界的に有名な、ノイエシュバンシュタイン城です。このお城はアメリカのディズニーランドにあるお城のモデルになっています。)

ヨーロッパではオランダの人たちは何か国語も話すといわれています。というのは、オランダは地理的にもちょうどイギリスとドイツの中間にあり、オランダ語の言葉も英語の単語とか、ドイツ語の単語に似たようなものがたくさんあります。ですからオランダ語、英語、そしてドイツ語の3か国語を話せても別に驚く事ではなくて、当然のことだと思います。私がヨーロッパで短期間一緒に旅行していたオランダ人の男友達は5か国語を話すと言っておりました。2022年11月23日発行のネットニュースによる英語能力指数国別ランキングが出ていて、オランダが1位に入り日本は80位という報告があがっています。ランキング上位の国々はほとんどがヨーロッパの国です。そのニュースを聞いてもなぜそうなのかということが、何となく納得がいくと思います。そのニュースのリンクを張っておきますので良かったら参考までに見ていただくといいかと思いす。https://news.yahoo.co.jp/articles/65ee0501b4dedd80f1190ec550e560153efddbe2

外国語を話すうえで、話そうとする言葉と自分の母国語の文型が似ているか似ていないかによって、その言葉の取得の難易度が変わってくると思います。自分の母国語が日本語の様なSOV型か英語の様なSVO型か知っておかれた方が良いかと思います。自分の国の言葉の文型がSVOの人たちは英語を学ぶ上では大した苦労もなく習得できるかと私は思います。

ヨーロッパの国のほとんどの言語がSVO型式です。ヨーロッパの人達が日本人と比べると英語を問題なく話せるのも納得できるかと思います。ちなみに中国語もSVO型式です。

次回の記事では日本人の視点から見て効率よく英語を喋れるようになるために気を付けておきたいことを私の経験からお話しさせてもらいます。英語初心者の日本人の方が英語で喋ろうとするときに一番苦労するのは頭の中でのSOV型式からSVO型式への変換だと思います。


初めからドイツ語が堪能だったわけではなかったのですね。やはり、生活するうえで必要に駆られて覚えていかれたのでしょう。学校や本での勉強大事ですが、相手とコミュニケーションを取りたい!という気持ちを持つことが上達への近道なのかもしれません。それにしても、石黒さんの行動力には驚かされます。

さて、これまでの記事も以下からご覧いただけますので、よろしければどうぞ。次回の記事もお楽しみに!

第1回「大谷翔平選手、トロントで勝利投手に」

第2回「カナダで1番大きな都市・トロント」

第3回「トロントのクリスマスと新年」

第4回「日本人と英語」

4 thoughts on “7期生・石黒さんより⑤

  1. 石黒文雄 より:

    1972年にドイツに行ったときは飛行機の片道切符と現金10万円ぐらい、1975年にカナダに来たときも片道切符と現金10万ぐらいしか持っていなくて、もし仕事が見つからなかったらどうしようとかは考えなかったですね。今ではとてもではないですが、こんな怖いことはできないと思います。若かったんですね。何も怖いものはなかったと思います。

  2. 石黒文雄 より:

    ヒッチハイクをするときは高速道路の入り口で立ってやることが多かったんですが、多くの人々に乗せて頂いてアウトバーンを走っていて気が付いたことは、ドイツの運転手の人々は高速道路の運転がとても上手でした。ご存じかもしれませんがスピード制限がなかったので、とにかくめちゃ早く運転をされていて、走行車線、追い抜き車線の使い方がとてもうまいと感じました。今でもカナダの高速道路を走るときは、ドイツでの経験が役に立っています。

  3. 石黒文雄 より:

    毎日アメリカのCNNのテレビ番組を見ていますが、アメリカでの銃を使った大量殺人、人種間同士のいがみ合い、アジア人にたいする暴力行為など頻繁にテレビで報道されています。とにかく人種に対しての問題の多い国です。今から約50年前にドイツに行き、アウグスブルグで一緒に働いた自動車修理工場の工場長、並びに十数名いた整備士の皆さん達、皆さんから一人の人間として公正に扱っていただき、働いていた1年間の間で、嫌な思いは一回もしたことはありませんでした。ヒッチハイクをしていた時も多くの親切なドライバーの方たちから拾っていただき、車に乗っていて、嫌な思いをしたことは一回もありませんでした。アウグスブルグ市、ドイツの人々に感謝しかないと思います。

  4. 石黒文雄 より:

    ドイツにマル一年いまして、その後ノルウエーのトロンへイムという田舎町で農業の手伝いを1か月して、それからイギリスのロンドンに渡り、3か月間英語学校に通っておりました。その後イスラエルのキブツという集団農場に5か月住んで、主に乳牛の世話をしておりました。それからまたヨーロッパに戻り、フィンランドのヘルシンキで、1か月子供病院でボランティアーの仕事もしておりました。現地の人達を理解するのには、一緒に働く事が一番いいかと思います。最後はヘルシンキからシベリア鉄道を使って、ロシアを陸路横断して、ロシアの極東にあるナホトカまで来て、そこから船で、日本にに帰ってきました。

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