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大阪府立阪南高等学校同窓会

事務局だよりSERVICE&PRODUCTS

石黒さん(7期生)からの記事

7期生の石黒さんから記事が届きました!
※記事は2024年3月にいただいていましたが、掲載が遅れてしまい申し訳ございません。



「日本人移住者が白人社会の中で生きていく時」

阪南の卒業生の多くの皆さんも今まで外国を訪れたことはあるかと思います。アメリカ、ヨーロッパ、アジアとか色々な国に行かれたことかと思います。行かれた理由は多分観光が目的ではなかったですか? 時々留学とか仕事で外国に行かれる人達もいますがこういう人たちは少数だと思います。個人、団体にかかわらず色々な都市又観光名所などにも行かれて楽しまれたと思います。こういう方法で外国に行かれると現地の人達とはたぶん接することはほとんどないと思います。只通りすがりの旅行者という事で終わると思います。ヨーロッパ、アメリカなどに行きますと色々珍しい建物、自然などがありますね。現地でお土産を買ったり、写真を撮ったり、いい思い出を日本に持ち帰り、楽しかったわで終わると思います。観光で来るとどうしても現地をただ通り過ぎるという感覚で終わってしまうと思います。現地の人と話すとか、交流を持つとかはたぶんないと思います。

もし何らかの理由で、日本人の方が突然海外に移住とか家族とともに長期滞在を余儀なくされて、北アメリカのアメリカとかカナダに移り住むことになったとしたら、多分その方はとても不安になられると思います。自分一人または家族を連れての移住となると家族連れの方が色々個人よりもやることが多くてまた心配事も多いかと思います。個人で来られる方でも、北アメリカに行ってまずどこの都市に住むか、どんな住居に住むか、それからどんな仕事が見つかるのかとても不安になられると思います。

普通の日本人の方が外国に住むときに一番苦労するのが言葉です。一般の方は日本国内では日頃英語を使う機会もなく、又日本語のSOV型式と英語のSVO型式の差があるために、一般の日本人の方は英語を話すことをとても苦手としています。そういう事もあり、普通の方は英語がうまくできないので、ホワイトカラーの仕事に就くのは難しく、どうしてもブルーカラー系の単純労働の仕事をするという事になると思います。その単純労働でも見つかるまではかなり時間がかかるかもしれません。私がトロントで始めた最初の仕事は新聞の求人広告で見つけた倉庫でのベルトコンベヤーで運ばれてくる色々な箱をカッターナイフで開ける仕事でした。朝から夕方まで、単純な作業でした。人と別に話をするわけでもなく、ただ流れてくる箱をナイフで切って上の部分を開けるだけの作業で最低賃金で働いていました。その仕事を1か月ほどやった後また新聞広告で、日産の車の整備士を募集していることを見つけて、さっそくディーラーまで行って面接を受けて、いつから仕事ができるかと聞かれて採用が決まりました。尼崎の日産で昔車検の整備士をしていましたが、こちらでは、修理の工具とかはすべて自分で用意する必要がありました。仕事に関しても、請負制というか、車を直してなんぼの給料をもらえる仕組みで、日本と比べると、厳しいかなと感じました。整備工場には十数名の整備士がいたと思いますが、皆車を直すのに忙しく、話をするとかはあまりしなかったと思います。整備士の人達も多くの方々が移民でこちらに来ておられたようで、国籍はバラバラだったと思います。その作業場にはほかに日本人の整備士の方が二人いて、良く面倒を見て頂きました。なんか我々日本人同士で、固まっていたという様な感じがします。毎日ほこりと油にまみれる厳しい環境の職場だったと思います。一応整備士は1年で辞めてカレッジに行って電子計算機のプログラミングの言語を習うことにしました。整備士になったのは外国に行くためと移住をするという目的の手段として選んだんですが、将来的にはほかの分野での仕事を希望していました。カレッジに2年と少し行って卒業して、運よくコンピューターの発展の波に乗れたような感じで、学校卒業と同時に、すぐにプログラミングの仕事が生命保険会社で見つかり、トロントのダウンタウンにあった大手の生命保険会社に就職が決まりました。丁度1980年ごろだと思います。

そのころのトロントはまだ人口的には白人が多く都市部に住んでいたと思います。移民者の多くも香港から来ている中国人、それにパキスタン、ジャマイカの黒人の人達が主な移民者たちでした。1990年以降は移民者が多く来るところとしては中国大陸、インド、スリランカ、ロシア、東欧の国が多かったと思います。街は移民者たちが常に入ってきていて、とても活気があるように見受けられます。今日本が直面している、国民の老齢化で国に元気がなくなっているという事は、カナダ、アメリカではないと思います。

初めてのカナダでのホワイトカラーの就職先がトロントのダウンタウンにあった生命保険会社でのプログラミングの仕事という事もあって緊張していました。新しい上司とも初めて会って、職場を案内されたんですが、同じ部署ではほとんどの人達が白人という感じで、まだアジア人がプログラミングの部門にはあまり入っていないような気がしました。ほかの会社の部門でもまだ白人が多く働いていました。それと女性の職場での進出が多いのには驚きました。会社の中では仕事中は色々な部門の方たちと仕事のことに付いて話とかはしましたが、仕事以外の時、例えばランチタイムの時に会社内にあった社員食堂に行ってお昼を食べるときなどは、皆さん何となく同じ人種同士で固まって食事をしていたという記憶があります。お昼の休憩の時にラウンジで話をしてる時も、白人は白人同士で固まり、アジア人というか有色人種は有色人種同士で固まって話をしていたように覚えています。英語に関しては皆問題はなかったんですが、やはり同じ人種同士の方が溶け込みやすかったのかなというのが、私の印象でした。

トロントに関しては世界でも有数の多民族都市で世界中から沢山の移民者たちがこの都市に来ていました。多民族都市であるがゆえに色々な人種的な問題も持ち合わせていたように思います。
私自身1970年の中頃に来たときは、人種的な嫌がらせみたいなことは何回も経験しました。道を歩いていると向こうからくる白人の男性に目の前で唾を吐かれたり、バス停でバスを待っているときに後ろから白人の数人の若い男たちから頭をこずかれたり、歩道を歩いているときに急に車が駐車場から飛び出してきて引かれそうにもなりました。デパートとかレストランで買ったもののお金を払おうと会計の所で並んで待っているときに、担当の人が前にいたお客さん達とはいろいろ話をしていたのに、私の番になると一言も口を利かずにお金だけ請求したとか、私が東洋人であるというだけの理由でこういうことをされたのではないかと思います。 こういう嫌なことはカナダのトロントではまだ少ない方だと思います。アメリカに行くともっと人種的な偏見が強くて嫌な思いをすることが結構あると思います。又大都市では、ニューヨーク、ロスアンゼルス、シカゴとかになると日中でも道を歩いていても、危ないなと思うことがしばしばあります。特にアメリカではコロナが流行したとき以来アジア人に対する偏見、暴力がらみの事件が増えています。アメリカの大都市では治安が悪くて行ってはいけないところが結構あるので、いつも身の周りのことに注意をする必要があります。

平和な日本からこちらに移住してきて、日常生活の上でも、ある程度自分の周りに何がいつも起こっているか気を付けて、自分の身の安全は自分で守っていくしか仕方がないかなと思います。カナダはアメリカほどではないんですが、拳銃を使った犯罪が結構あります。アメリカから違法な拳銃が国境を越えてカナダに持ち込まれてきて、それが犯罪に使われるケースが増えています。日本にいると拳銃で撃たれるという事はまずないと思うんですが、こちらではいつそういう事に巻き込まれるかわかりません。

話しは少し変わるんですが、娘が丁度3歳頃の頃に初めてタウンハウスと呼ばれる長屋系の家を買いました。2階建てで、地下室があり、裏庭も少しあった初めて家を購入するものには手ごろな家だったと思います。問題は裏庭の後ろ30メートルぐらいの所に10階建てのビルがあったんですが、私は最初は多分アパートかマンションだと思っていました。夏場になるとベランダに人々が出てきて、色々話をするのが聞こえました。ある時家の裏側でガラスが割れる音がしてみてみると、誰かが大きなオレンジを投げつけて、私の家の地下のガラスにあたり、ガラスが壊れてしまいました。誰がやったのか分からないのと、何処に報告していいのかもわからずそのことはそれで終わったと思います。それから数年して、夏場に子供達二人が裏庭で遊んでいると息子の頭に誰かが投げたBBQで使うチャーコールみたいなものがあたりました。この時は警察を呼んで事情を説明しました。警察の方が言うにはだれがやったかわからなければ警察の方でも何もできないみたいなことを言われました。それからその時に初めて分かったんですが、後ろにある高いビルはアパートではなくて、低所得者用に州政府が安く貸しているビルで中に住んでいる人達も良くない人間が多いと聞かされました。こういうトラブルを避けたいなら、何処かほかの安全なところに引っ越すのがいいのではないかとアドバイスを頂きました。

今から35年ほど前の話しなんですが、その頃トロントでは不動産ブームが始まる前で家も安く買えた時期でした。新聞広告に載っている少し郊外にある環境のいい場所にある家を探していて、ちょうどいいような感じの家があったので車でその場所に行って見て気に入ったので、そこに近いうちに建つ家を買うことにしました。丁度私たちが住んでいたところよりも20キロ北にある小さな町のはずれに家が建つことになってました。その頃のその町はほぼすべて白人という感じで、街を歩いてみても、有色人種はいなくて、ほぼすべて白人の街だなと感じました。私達が今まで住んでいたところは移民者がいっぱい住んでいたので、20キロ移動するだけでこれだけ人種構成が変わることに驚きました。

無事に家も立ち、子供たちも近くの小学校に通うことになりました。私は仕事が忙しく、子供たちが学校に通うことは妻が主に面倒を見ておりました。思っていた通り、娘のクラス、息子のクラスにしてもほぼすべて白人の子供達ばかりで、有色人種の子供は私の子供たちとあと数人いるかいないかだったと思います。娘が4年生で、息子が1年生だったと思います。

子供たちが学校に行きだしてから、しばらくして娘が学校でクラスメートの白人の女の子にいじめられていると言い出しました。いじめがあればそれは見過ごすことができないので、私が学校まで出向いて、担任の先生に話をしに行きました。先生は大変若い白人の女の先生で、彼女が言うには娘をいじめているという女の子は、とてもいい子で、そんな悪いことをするはずがないと言うだけで全く聞く耳を持たない感じでした。私が言っていることを全く信用する気配がなく、これ以上言っても無駄だなと思い、早々に引き上げてきました。

娘のことで色々考えておりましたところ、息子の方でもクラスメートの白人の男の子にいじめられているという事を聞きました。その時はその子供の家まで行ってドアのところに出てきた母親に、お宅の子供が私の息子にいじめをしていると言いましたところ、その白人の女性はかなり怒ったようで、うちの子供に限ってそんな悪いことはしないというだけで全然話にならない状態でした。お互い気まずい状態になって別れたんですが、一応言うべきことは言っておこうと思っていたので、それでよかったと思っていました。

娘にしても息子にしても肉体的な虐待とかは受けていなくて、ただ嫌な事を言われたとかされたとかそういう事だったので、これからどうなるか様子を見ようという思いでした。
この町に引っ越してきた理由は子供たちに良い環境を提供してあげたいという思いで、引っ越してきたんですが、学校で思いもしないトラブルに巻き込まれたようで、複雑な心境だったと思います。そういう事があってからしばらくして娘も息子も学校生活になじんでいき又クラスの子供たちにも受け入れられたようで、それ以後はトラブルというものは聞きませんでした。考えてみるとなぜそう言う様ないじめがあったのかと考えたら、地元の白人の子供たちが東洋人の子供にどういう様に対処するのか分からなかったんではないかなと思っています。たぶん初めて東洋人を見た子供たちも多かったと思います。見た目が違う子供に対しての、付き合い方が分からなかったのかなと私は思っています。だから相手に嫌な事を言ったりしたりしたのではないかと自分では考えています。こういう学校での東洋人の生徒にするいじめというのは小学校だけではなくて、高校でも起こりうると思います。こちらで色々な高校生達を見てきましたが、大まかに言ってこちらの子供たちは日本の子供たちに比べると、性格、行動が荒い子供が多いと思います。日本のおとなしい高校生が言葉も分からずにこちらに留学とか、転校とかされてくるといじめの対象になる確率は高いと思います。

最近ネットのニュースなどを見ておりますと、安易に若い人たちが海外留学を希望されている記事をみますが、こちらに来る前にいろいろ調べられて、どういう様なサポート体制があるのか確認されておいた方が良いかと思います。もし万が一にも何か問題が起これば傷つくのは日本から来ている子供たちです。

私の息子が今まで3年間こちらにある公立高校でVICEーPRINCIPAL(教頭)をしていましたが2024年の2月からわたしの家の北30キロほどにある公立高校の校長に任命されました。その学校の生徒の構成は80%ぐらいが白人で、後は色々な人種の生徒から成り立っていると聞いています。日系2世カナダ人校長として色々なチャレンジが待ち受けていると思いますが、学校内ではいじめが無く安全な環境の下で全生徒が有意義な高校生活を送れるように他の教職員と共に学校を運営して行って欲しいと願っています。


(↑一番最初に買った家です。後ろに10階建ての低所得者用のビルがあります。写真の真ん中の家で、2階が薄い緑色の家が私の家でした。)




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