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大阪府立阪南高等学校同窓会

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植栗先生の講演「創立当時の思い出」

会報に掲載した阪南高校の創成期を知る植栗先生の講演の音声ファイルを再度編集し直しました。2017年の秋に行われた「三四依羅会」での講演の様子です。録音資料のため多少のノイズ等はありますがご了承ください。音声は合計40分ほどです。

※音声と一致していない箇所や、文章に補足等を入れている箇所もあります。

今後も母校に関する資料を公開していきますので、ぜひ更新の折にはご覧ください。

1.はじめに
2.阪南高校赴任時の思い出
3.スパルタ学校だった阪南高校
4.形は心と不二である
5.合言葉は「追いつけ追い越せ」
6.5期生の思い出
7.退職後の吉原先生
8.紛争の時代
9.卒業式クーデター
10.自律心の顕れ

1.はじめに

▶音声で聞く

植栗でございます。たくさんお集まりいただいて。すごいプレッシャーを感じております。

最初にですね、幹事岩橋先生と武田先生からお話があった時に、とてもそんな30分ではね、もたない、もたないだろう、30分も喋れないと、申しまして。たらね、次から次へとものが、思い出が浮かんできたら、こらもう1時間でも足りんと。それをどう削除するかで、だいぶ苦労したんです。で、あの、講演なんて大げさな題がついておりますが、雑談、あの頃についての雑談、そう思っていただいたらありがたいと思います。

それでね、削除するのにあたって、わたし話をするときにね、原稿とかメモとかね、作ったことが全くない。今度はね、あれをやっぱり削除する、どれを拾うかということでメモを、但しメモはね、吉原先生の時代で終わっちゃってる。そういう無理そうなメモなんですけどね、ま、そういう前書きでお話をします。

2.阪南高校赴任時の思い出

▶音声で聞く

まずね、私が阪南に参りました時の次第、これはあの、卒業生を出して、卒業生を出すとね、私はもうその都度その都度、鬱になるくらい寂しくて寂しくて、たまらない。その年は特にひどい風邪をひいておりました時にね、岩橋(吉原?)先生から来ないかと、いう話があったので、ついふらふらと、ま、いうなれば、乗った。

で、吉原先生はね、あのまさか声はかけたけれども来ないだろうと。創立80周年になるなんとする学校から4周年の学校に来るなんてことはね、非常識だと。というふうに考えておられたようで隠し玉を持っておられたと。よその富山の方から女の先生に声をかけて、もし私がアレだったらその方をと、いうようなね、心づもりもしておられたんです。

それでまあ一応私がOKしましたのでね、前の年の終業式、36年の終業式ですね、の後ね、わざわざ校長は学校まで私を迎えに来られたんです。で、私はね、教材を全部最後までやるという芸当ができませんのでね、いつもたくさん残るんですが、文法だけは最後までやらないと、こりゃだめだというので、文法が遅れていたクラス1クラス、終業式の後、授業して、その間校長はじーっと辛抱強く待ってくださって、で授業が終わって、二人で雁首を並べて、校長のところにですね、挨拶に。

まあいただいてまいりますと言ったのかな、しますとおっしゃったのかな、ともかく吉原先生は礼儀正しく挨拶をし、私はお世話になりました、で学校を後にしたんですけどね、茨高を。阪南に来る途中の電車の中で、採用した先生方を絶賛するんです。褒めまくるんです。採用されたことの自信の表れだとは思うんですけどもね、新設校の校長というのは人集めに大変なんだなということをその時痛感しました。

3.スパルタ学校だった阪南高校

▶音声で聞く

さて学校へ来てみるとですね、(遅刻した)生徒は正門から出入りできない。離れ離れた自転車置き場の横の通用門から、出入りできる。

まだ3棟が建ってない時代でしたからね、2棟までの時間もかなりかかったと思うんですけども、教頭のところに出頭して、入室許可証のはんこを押してもらってね、で、やっと授業に出られるというような体制で、それも3回続いたら父兄が呼ばれる、いうような厳しさでね、吉原先生自身が、新聞や地域社会からスパルタ学校だとね、称されたと、そのようにおっしゃってました。

冬になってもね、生徒は防寒具を着ることが許可されない。手袋だけ、というような制限で、そらまあ厳しい指導だったんですけどね。その厳しさはね、生徒だけじゃなくて、教師にも、当然教師にも及びましてね、私が机の上にハンドバッグを置いてましたらね、ひっこめて収納せいと。ハンドバッグは男の人の背広のポケットみたいなもんでね、こら必需品ですといって抵抗したんです。ともかく、収納場所がたくさんあるんだから、そのための別注の、特注の机をですね、買ってるんだから、机の中に入れろと、で、入れてみましたらね、8人並んでいるテーブルの上が何にもない。タップダンスをこら踊れるなと思うくらいね、綺麗に片付いているんです。

特にね、生徒はね、帽子をかぶらないでね、通学してるのを校長に発見されたんです。校長室に呼ばれまして、直立不動で立ちましてね、お前はどんな指導をしてるんだと。帽子をかぶってない生徒がお前のクラスにいるのか、そういう状況でしてね、とにかく厳しかった。

その子はね、髪こそ我が命というような、七三に分けた綺麗な髪をしてですね、大人びたムードを持ってる子でして、かぶらないんですね、いくら指導してもね。仕方がないから購買部でポケットマネーから帽子買ってきて、ぎゅーっと頭に押し込んだんですけど、結局かぶらない。だから、校長の目にとまらないようにせよ、というふうに指導をしてですね、ま、終わったんですけど、そのことについて校長はね、自分のスパルタ教育について、こういう風に述べております。

4.形は心と不二である

▶音声で聞く

形は心と不二である、形と心とは、一体のもんだ、不二であるという教育の信条が私の厳しかった教育実践の支えになっていたと。形とそして心の一体化。だから、仕事をする職場の職員室の上がすきーっと片付いてる。生徒は帽子をかぶって通学する。それが吉原先生のビジョンであった。いうふうに思うんですけどね。

それはね、吉原先生のことがこの阪南教育20周年記念の、阪南教育の中から引用した。ちょっと宣伝しますとね、この本を作ったのは私なんです。相棒の江川先生は企画の段階で体調を崩して降りてしまった。そこでほとんど私、三木先生から写真は頂戴しましたけれどもね、作った。

そこに校長が最後の方に今のような言葉が述べておられます、書いておられました。それを引用する権利はね、これを作った私にはあると思います。これからしばしば何回かこの中から引用できるものはあるかと思いますけど、

これを作るためにはね、授業のない時間はもちろん、休憩時間も使い小会議室に飛び込んで、家に持って資料を持って帰ることはね、できませんから。散逸する心配もあるし、母親の目に触れる恐れもあるし、だから結局学校の中で、まあ、で、行徳校長先生はね、当時、もうとてもじゃないけどできないだろう、年度内にはできないだろうとふんでおられたようでしたけど、頑張って作った。それを宣伝しときまして。

5.合言葉は「追いつけ追い越せ」

▶音声で聞く

当時の阪南の合言葉はね「追いつけ追い越せ」。
それはもう、そうそう、4期生の1年生の担任をしていたんですけどね、ホームルームの時間に突如学級代表が、立ち上がってね、「みんながんばろうぜー」って掛け声をかけて、「おー」というようなね、ともかく担任が啓発されるような、意欲でした。

その年から7時間授業が始まったんですけどもね、「追いつけ追い越せ」の追いつくためには、授業・授業・授業という体制でしてね、7時間授業、それから、試験が終わって普通の学校だったら試験休みですわね、終業式まで、それも授業。だから教師は採点と、授業と並行してやらなきゃいけない、終業式も授業。夏休みは前期十日、後期十日、二十日間の補習という名の実習。出席日数が悪かったら、担任がやっぱり呼ばれるというような状況でした。

それでね あまりの、まぁスパルタ教育といいましょうか、「追いつけ追いこせ」で学習が多かったせいかね、3期生はね、150人入学して、114人落伍するいうような厳しい状態だった。それでね、私は校長室に学年末、赴きましてね、先生、成績だけじゃなくて人物もあわせて総合的な及落の判断を提案したいと思うけどどうかと、こう伺いましたらね、校長もやっぱり生徒を心配しておられたんでしょう、出してみようと、許可が得たので出したんです。

ところがね、名前を言いますと、もう心当たりあるかと思いますが、清水先生が立ち上がってね、大きな声で前例がないと、ナンセンスだと、生徒を成績だけじゃなくて総合的に判断するのはナンセンスだと、いうふうにおっしゃってね、これはまた時期尚早であったと、それ以上は押さないで引っ込んだんですけどね。

6.5期生の思い出

▶音声で聞く

そのうちにあれは昭和38年、5期生が入ってきました。今までは550人入ってきて生徒数は1000人になったんですけどね、これは優秀な生徒が入ってきましたね、5期生はね。

岩橋先生や安田先生の担任だったと思うんですけどね、校長がともかく熱弁をふるったんです。いい生徒を迎えようとして熱弁をふるったところを私は見ても聞いてもいませんけれど、後で入学してきた子に言わせるとね、校長の口車にのって阪南に入ってきた、というようなことをですね、言ったりしてました。何人かがね。それほど熱弁をふるったんだと思います。

確かに、その時先生も13人どっと入って、安田先生もそうですかね、5期生が入ると同時に入って来られた。岩橋先生などはもっと前から入ってらっしゃったのに、若い教師は保護者への対応ができないというので、担任を持たされないで2年間待機しておられた。5期生のときに、2年間待機してましたねと言ったら、5期生に会えたからよかった、むしろね、と岩橋先生はおっしゃったりしたんですけど。

授業に行っても手ごたえがあってですね、楽しかった学年です。その連中が卒業するまでには校長は在任しないで、1年前でしたか、在任してその5期生の成績の結果というのはですね、その時はしょうがくされないで辞められたと。

5期生はね550人のうち、例えばその進路をあげますとね、国公立が50名、それから関西有名私大が169名合格入学。そして女子の場合もね、大谷とか常盤とか、短大に入って、ともかく現役で、会社もいい会社に入ってます。現役で410人、550のうちの410名が入ってるんです。いうような結果をですね、出しました。

7.退職後の吉原先生

▶音声で聞く

で、吉原先生が38年かな、38年ぐらいに退職されましたね、終わってからね。

終わってからの吉原先生についてちょっと申し上げますとね、非常に吉原先生っていうのは音感の発達した方だった。茨高時代に国語科で三朝温泉に行ったんですけどね、三朝温泉の音頭、仲居さんが歌ったら一発で覚えた。そして私たちをリードしてくれる、指導してくれるというようなでした。

それでね、晩年になってから、その音感を生かしてね、関西と、関東のアクセントの違い、その対照を、対比をといいましょうか、かなり分厚いね、本にまとめられたんですが、その趣旨はね、例えば芭蕉の俳句、「この秋は 何で年よる 雲に鳥」というね句があるんです。最晩年の、元禄7年の句なんですけどね、これの意味は、「この秋はどうしてこんなにくたびれやすく、年をとったんだろうと、見ると、雲のかなたに鳥が飛んで行った、それは自分の余命をですね、なんか暗示しているような、象徴しているような気持ちがする」いう句なんですけど、それをね、吉原先生は当時の芭蕉の地域のアクセントで発音するとね、

「この秋は 何で年よる 雲に鳥」
私勝手に想像して言ってるだけですけど、そういうまぁいわばアクセントだと。「この秋は 何で年よる 雲に鳥」そこに、余命少なく感慨深い哀愁といいましょうか、それを芭蕉は詠んだんじゃないか、そういうふうに読まなければね、標準語で詠んではね、芭蕉のそういう心境は分からない、新聞にもそのことが載ってね、大変評価されたと思います。

残り少ない時間になって慌ててるんですけどね、そのあと、金子先生が見えまして。金子先生についてもいろいろ話はあるんですけども、時間が足りないので残念ながら割愛しますけどね、金子先生はね、やめられて、私が箕面のもみじを見るときに向こうから来られてね、あー懐かしやといって手を取ったとたんにハグをしたんです。私ね、もう在職中は散々憎まれ口をきいて、江川先生からあんたはきついなーと言われたにも関わらず、だからまあ金子先生の人柄といいいましょうか、こっちのほうが恥ずかしくなったくらいなんですけどね。

8.紛争の時代

▶音声で聞く

その金子先生の後半に、議長が当選になったんです。これが阪南のまぁいわば民主化ということばを使えば始まりだったと思うんですけどね、その5人にわたし女1人、しかも再公選で入ったから私は議長団長だ、女団長だなーんて言われてたんですけどね、それが2年経って、清田先生が入ってこられて、紛争の時代になりましたね。

私ね、一番言いたいことは、それはね、議長が職員、これはもうあの清水先生が紛争のことについては詳しくお話をなったと思いますけどもね、生徒が五か条の要求を掲げて交渉に来ましたね。それに我々は誠実に答えようということを申し合わせましてね、同じようなケースがよその高校にあった場合、教師が分裂して後々までその後遺症が残ったという話を聞いたりしましたけどね、阪南高は一致団結、誠実に回答を生徒にあげるというのでね、職員会議がね、一月の間に19回、これは放課後です、昼間も使いましたからね、もっと回数が多かったと思うんですけどもね、

これは堤先生が記録しておられるんですけどね、一か月に会議が職員会議が19回、午後11時終了や、延々5時間10分の差を最高に、3回が3時間半を超している、いや9回が3時間半を超しているというような職員会議、延々と続いたんですけどね、食事が最初の頃はね、インスタントラーメン、それも固形の四角い、あの愛想のない具が何もない、がまわってきましてね、それをどんぶりの中に入れて熱いお湯ややかんがまわってきて食べる。

それをね暫く続いたんですけども、保健体育の先生が衛生上悪い、と言われましてね、結局パンに変わったんです。そしたら、パンなんていらん、嫌いだっていう先生が出られましてね、全然食事が出ない。終電車にタッタカタッタカと5時間のときは恐らく終電車に間に合うべく走ったときと思うんですけどね、もちろん空きっ腹をかかえて走った、いうような状態でしてね、家に帰ってもね、私は学校であったことは絶対母親に問題のことはしゃべらない。おしゃべりですからね、交際範囲の広い女でしたからね、だから一切しゃべらなかったので、なんでこんなに遅くなるんだと、しまいには家でも食事にありつかない、いうような状態で、非常に女議長と言わせたのはいいんですけども、まぁ大変でした。

で、その時に更に生徒の意見を正確に聞き、我々の意見も正確に伝えようというのでね、顧問の先生は林先生、美術の先生でしたけどね、克明に生徒の言い分をメモにとって、我々の答えをメモにとって伝える。あれ以来私はメモ魔になりましたと林先生がおっしゃるくらいの克明さでした。

9.卒業式クーデター

▶音声で聞く

まぁ時間がもうそろそろなくなってきて、初めにお断りしたとおり、雑談ですからね、こんな調子でお許しいただきたいとは思うんですけども、3代目のだから紛争が起こったのは、3代目の清田先生ですね。清田先生は非常にご苦労なさったと思います。

で、1回目のね、卒業式。これはSくんが退学問題で他の高校生と語らってクーデターしたんですけどね、その時に、一日、25日に卒業式があるはずが、27日に延びた。でその延びた前の日に、26日にね生徒会が、Sくんの言い分を聞いてやろうじゃないか、というので、会合をもったでしょう。とりたてて取り上げられる意見ではなかったという風には聞いてるんですけどもね。それで卒業式が27日、まあヤジの飛び交うこと飛び交うこと。S君を支持するもの、それに反発するもの。新聞社がね、校長はいつもあんなに早く来て祝辞を言うのかと私に聞いてきましたから、この男は空気の読めない男だなという風に思ったんですが。そのときね、答辞で卒業生の子が、答辞の中でね、そういう風にヤジが飛び交う中で、檀上に上がった卒業生がこう言ったんです。

これもあたしの引用の権利ですけどもね、
「今の阪南には解決しなければならない多くの問題があります。それをこれから在校生たちが一つ一つ解決していくことを望みます。そして今回のように、暴力をもって卒業式を阻止することは許されるべきではありません」。涙ながらにね、答辞を述べたんです。それが終わった途端に「わー」っていう拍手が起こりましてね、ヤジを吹き飛ばすような、その時に思ったのは、阪南の生徒というのはね、自律心、立つのリツじゃなくて、ぎょうにんべんの自ら律するという「自律心」を持ってるんだな、という風に感動しました。

10.自律心の顕れ

▶音声で聞く

その自律心の顕れをいろいろと後から思い出したものを述べたかったんですけど、もうとてもじゃありませんけど時間、それを結論付けて、結局教師の団結力、2年に1回ですね、予算委員会を持つということ自体が、教師の仲が良く、親睦があったりと、それから生徒自身の持っている自律心、これはやっぱり阪南の生徒のすごい利点だと感動したことが何回かあります。それを紹介できないのが残念なんですけどね、30分ということで、いいですか、まだまだ話したいことがある、今のような状況でよろしいですか、終わりにして。

ではお言葉に甘えて、自律心の方をね、申し上げますとね、食堂が、入って、これは谷校長の時、食堂が開かれて、そしてそれからずっと後の話ですけどね、私が生活常務の食堂係をしてたときだと思うんですけど、茶碗が残って後が大変だという訴えをね、食堂の方から指摘してきたので、行ってみますと、それは累々として食器が残ってる、食べた後のね。でこれはね、しかし注意してもね、もぐらたたきみたいなもんでね、こっちが出たと思えばあっちがというような状態で、これを排除するのにどうしようかと思いましてね、メモを作って毎日、今日いくつ残ったかということをですね、ホームルームで担任に報告してもらった。

そしたらね、ある日、ずいぶんかかりましたけどね、きれいさっぱり一個も残ってなかった日があった。これはね、なぜかと言いますとね、食堂の真ん中で大きな顔をして利用してたのはラグビー部なんです。でラグビー部はね、阪南の花型ですからね、本当に大きな顔をしてて、一番に場所を決めて、そして食器も残していた、という状態で。私はね、まさか前田先生のところに行ってませんね?ラグビー部。ともかく、ゼロになった。で、ゼロになった時にそれをメモにして配ったら「わー」という歓声が教室からあがったので、生徒たちもやっぱりそれを気にしてたんだということが分かりましたけどね。

なぜ、ゼロになったのかというと、ある先生がラグビー部が試合で勝ったんです、いい成績をあげたんです。そのプライドがいわゆる自律ですわね、それもね。

それからもう一つは、写真がね、渡り廊下に修学旅行の写真、諏訪湖写真だと思います、三木先生が貼ったんです、ボードに裏表ね。そしたらね、いつの間にかね、数が減って消えてしまったんです。ずいぶんたくさん取られた。それで私はやっぱりその時その学年の係をしてたと思うので、漢の武帝の法三章の例などを挙げながらね、盗みは罪だということを、写真といえどもね、訴えたんです。全生徒に、その当該学年の生徒に全員にプリントをね。そしたらそのとき来られてた女の先生が、この学校ではいつでもこんな風にせいに告ぐ、というというようなね、文章を配るのかとからかわれたんですけどね、その結果はどんどん箱を置いといてそこに返したんですけどね、何枚返ってきたと思いますか、分かりませんね、1枚だけ残っちゃった。あと全部箱の中に返ってきたんです。その1枚はおそらく大事な写真か何かで、額縁に入れて机の上に置いといて、返し難かったんだと思うんですけどね、その時に恐らく私の文章なんてきっかけです、お前も返すなら俺も返す、お互いに話し合って返したんだと。それはやっぱり生徒の自律心の顕れだと思うんですけどね、まぁ例を挙げれば楽しい思いをいたしました。

それで終わります。


 以前のHPにいただいていたコメント
渋谷幸久
2018年10月28日 8:06 PM

懐かしい植栗節を聞き、もう40年も前の高校時代を思い出しました。

12期 管野
2019年2月8日 9:14 PM

12期生の管野と申します。植栗先生には大変お世話になりました。在学時にお世話になった先生や印象深い先生は数々いらっしゃいますが、先生は私にとってはその中でも良き影響を与えていただいた筆頭の方です。国語と古文を教えていただきました。この講演、大変興味深く拝読いたしました。卒業時のクラスは三年八組、前田先生の組で体育館横の体育教官室へ入り浸りで正規の教職員室へはほとんど出入りした記憶がありません。というのも、一 – 二年生時のクラス担任が体育の大西先生でしたので、高校の三年間の担任が全て体育の先生だったためです。現在は色々ありましてアメリカ合衆国、ワシントン州レントン市に住んでおります。これからも母校のニュースに接したいと思いますので、このサイトページにはちょくちょくアクセスしたいと考えています。勝手なことを書き連ねましたが、今後とも宜しくお願い申し上げます。






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